愛しい傷跡 前編
寒さにも負けずに、ちゅんちゅんと雀が爽やかに鳴く朝。
銀時は障子を透かして差し込む朝日から逃れるように身を縮めた。
そこで、身体を覆う布団よりも温かい物が自分の腕の中にある事に気づく。
腹の底からほっこりと温めてくれるようなそれに、銀時はくふんっと満足そうに鼻を鳴らしてさらに腕の中に抱き込もうとしたその時・・・。
とんでもない殺気を感じて飛び起きた。
間髪置かずに、一瞬前で銀時の頭があった場所にザシュッ!!と音を立てて薙刀の刃の部分が突き刺さる。
と、同時に鋭い舌打ちの音が響いた。
「ちょおぉおぉおぉぉっ!!起きなかったら確実に頭貫かれてたよね!?コレ、確実に貫かれてたよね!?」
「殺りそこねたか(どうかしました?)」
「逆ぅうぅぅぅぅぅうぅっ!!本音と建前が逆になってるぅうぅうぅぅっ!!」
「ワザとですから」
おほほっと口元に手を添えて、妙は喚く銀時ににっこりと微笑んで見せた。
が、それは一瞬で消え去り、驚く暇も無い速さで妙は布団・・・と、確実にその下にある畳まで・・・を貫いていた薙刀を引き抜くとびたりと銀時の鼻先へ突き付ける。
仰け反ってそれから逃れようとした銀時だったが、残念な事に直ぐ後ろには壁があり、逃げ道を阻まれた。
「ちょっ!!おた、お妙っ!!切っ先から殺気が噴出してるっ!!怖いっ!!マジで怖いからっ!!」
「うっせぇんだよこのクソ天パ。いいから、先ずは抱え込んでる腕の中のモン離せや」
「うぇ?」
見た目こそ笑顔ではあるが、明らかに背後に般若と暗雲を引き連れている妙の言葉に、銀時は目を瞬かせて瞳だけを動かして己の腕の中を覗き込んだ。
腕の中には、胸の前で両腕を行儀良く折り畳み銀時の肩口にさらさらの黒髪に覆われた頭を預けて眠る新八の姿。
あれ程銀時が喚いていたのにも係わらず、零される寝息は穏やかな物だ。
どうやら、銀時が抱え込んで眠っていたのは新八であり、妙の奇襲で飛び起きた時も抱えたままだったらしい。
と、言う事は・・・と、銀時は新八に向けていた視線を上げてくるりと辺りを見回した。
新八が大ファンだと言うアイドルのポスターが貼られた壁。
本棚には写真集やらCDやらが几帳面にぴっしりと並べられている。
「あっれぇ〜?此処、新八の部屋?」
状況も忘れて暢気に呟いた後、銀時は慌てて頭を横に倒した。
今度はガツッ!!と重い音を立てて薙刀の刃が壁に突き刺さる。
避け切れなかった奔放に跳ねる髪の幾本かが、永遠に銀時の頭部から別れを告げた。
「あっれぇ〜?じゃねぇだろうが。テメェの部屋は隣じゃねぇのか?あぁん?」
「すみまっせんっ!!ホント、すみまっせんっ!!夜中に厠に行った時、寝ぼけましたぁあぁぁっ!!」
腕の中に新八が居なければ畳にめり込む勢いで土下座していただろう勢いで、笑みを掻き消して凄む妙に銀時は謝る。
不意に、ううんっと小さく唸る声がその場に響いた。
さすがに寝ていられなくなったらしい新八が、銀時の腕の中もぞりと動く。
うーんっともう一度唸ると、ぱかりと目を開いた。
二度瞬きをして、自分を未だ抱えたままの銀時を見上げる。
そして薙刀を壁に突き刺したままの妙へと視線を向けた。
それで状況を理解したのか、寝起きにも係わらずはぁーっと盛大な溜息を零した。
「またですか、兄上」
心底呆れたと言いたげな新八の視線に、銀時はへらりと笑って見せた。
「それじゃ新ちゃん。行って来ます」
「はい、いってらっしゃい姉上。ゆっくり楽しんで来て下さいね」
何時もより身支度に時間を掛けて敲きに立った妙を、新八はにっこりと笑って見送る。
新八の言葉に、妙は少し照れ臭そうに微笑んで頷く。
これから妙は、所謂デートに出掛けるのだ。
装いにも気合が入って当然である。
「あ、そうそう新ちゃん」
「はい?」
玄関の戸に手を掛けて、何かを思い出したのか妙が新八を振り返った。
忘れ物だろうか?と首を傾げる新八を他所に、妙はそれはそれは素晴らしい笑みを浮かべる。
「あの馬鹿兄に何かされたら、容赦なく股間を蹴り上げてお仕舞いなさい。容赦なく」
「ははは・・・」
念を押して、今度こそ玄関の戸を開けた妙に新八は乾いた笑いを零した。
行って来ますと、もう一度出掛けの挨拶を告げた妙へ、新八も同じく見送る言葉を掛ける。
パタンと音を立てて戸が閉まった事を確認すると、小さく溜息を吐いて自室に足を向けた。
自室の襖を開ければ、敷きっ放しの布団の上で銀時が伸びている。
へらりと笑ったあの後、手加減無しの妙の踵落しを脳天に食らった為だ。
「あーにーうーえー。好い加減起きて下さい。アンタのせいでまた布団に穴が開いたから繕わないといけないんですから」
おーきーろーと乱暴に肩を揺すれば、唸ってるのか呻いているのか微妙な声を銀時が上げた。
ふと、肩を揺らす新八の手が止まる。
視線の先には倒れ伏した時に寝巻き代わりの甚平の左袖が捲れ上がったのか、肘より少し上までが晒されていた。
その腕には、肘を挟むように引き攣れた傷跡がある。
傷跡を目にして新八は痛ましげに目を伏せると、そっと傷跡に手を伸ばした。
「んな顔すんじゃねぇって、何時も言ってるだろうが」
傷跡に指が届くよりも早く、伸ばされた新八の手を銀時が右手で掴み取る。
よいせっと掛け声を上げて起き上がると、軽く左腕を振って捲り上がっていた袖を落として傷跡を袖の下に隠した。
起き上がって胡坐を掻くと掴んだままだった手を引いて、飛び起きた時のように膝の上に新八の身体を抱き上げる。
大人しく腕の中に納まった身体にゆるりと両腕の巻きつかせ新八の頭に頬を乗せると、銀時は小さな溜息を零した。
「後遺症もねぇし嫁入り前の娘でもねぇ。こんくれぇの傷、残った所で問題ねぇっての」
苦笑いながらそう言葉を綴る銀時に、新八は何も言わず袖の上から傷跡を撫でる。
薄い生地越しでも、傷の凹凸が感じられた。
「それによぉ・・・オメェは嫌がるかもしんねぇけど、この傷は一生消えなくてもいいって思ってんだよ」
ガシガシと頭を掻いて、少し困ったような表情を浮かべながら銀時は本音を零した。
短く息を吐くと、銀時は腕を撫でる新八の手に自分の手を重ねる。
ピクリと震えた手を宥めるように軽く叩いて、言葉を続けた。
「この傷のおかげで、俺はオメェらの兄貴になれたんだしな」
眼鏡越しに見上げて来る黒く大きな瞳を覗き込んで、銀時はふっと穏やかな笑みを浮かべる。
十二年前まで志村家には、妙と新八の二人しか子供はいなかった。
だが、十二年前のちらちらと雪の舞うある日。
志村家の家長である父親がガリガリに痩せ細り襤褸だけを身に纏った、年の頃十一か十二程の少年を背負って帰って来た。
その少年が誰であろう、銀時だった・・・。
覚えている一番古い記憶の中で、少年は何時だって一人だった。
自分が何処の誰の腹から生まれ、何処で育ったかなど、何一つ覚えてはいない。
気づけばただ一人、薄暗い路地を、時には崩れかけた廃屋の片隅を塒として生きていた。
少年の奔放に跳ねる髪は鈍く銀色に輝き両目は血のように紅く、何処に流れても鬼の子と蔑まされこそすれ、救いの手を伸ばす者など居るはずがない。
死を、願わなかった訳ではない。
死ぬべき命なら、何故この世に生まれ出でたのか?
死ぬべき命なら、何故己は年を重ね未だ息をし続けているのか?
その疑問だけが、少年を生に食らい付かせていた。
暗く澱んだ瞳の奥には、決して消えない生への執着だけが鈍く輝く。
しかし、親も素性も知れぬ子供が真っ当な職に付ける筈もない。
誰に頼る事も出来ずに居た子供が生きる為には、盗みに手を染める以外に術はなかった。
その日も少年は、己の命を明日に繋ぐ為に食い物を盗もうと暗い影の中、その時を只管待つ。
好機は、何度かあった。
だが・・・ここ数日碌に食べ物を口にしていなかった少年は、その好機にも動く事が出来ずに居る。
ふと、此処で終わりなんだろうか?と思った。
このまま空っぽの腹を抱え、飢えて死ぬのだろうかと、少年は回転の鈍くなった頭で考える。
のろりと顔を上げて空を仰げば、厚い雲が空を覆いつくし、雨か・・・この時期なら雪が降ろうかとしていた。
雨は、嫌だなと、はぁっと白く霞む息を吐きながら思う。
冷たいだけだからと。
雪なら、いいなと、抱えていた膝に頭を預けた。
雪は冷たいけれど、白く綺麗だからと。
あんな綺麗な物に覆われて死ぬなら、それも悪くないかなと目を閉じた。
閉じてしまえば、もう二度と開く事は出来ないかもしれないと頭の隅で思うが、少年は疲れ切っていた。
何処に行っても鬼子と蔑まされ、盗みに失敗して追い掛け回され、捕まって全身がバラバラになるかと思う程に殴られる事に・・・。
痛いとか、辛いとか、そう言った物から解放されるならと、呼吸を深くゆっくりした物に変える。
今まで生に食らい付かせていた何かが、ぷつりと切れる音を少年は聞いた気がした。
不意に、雲から白が舞い降りる。
まるで最後になるだろう少年を願いを聞き届けたかのように、真っ白な雪がふわりと。
ゆっくりと空から舞い降りて、雪が少年の頬に触れる。
(あぁ・・・よかった。雪、だ・・・)
触れた感触でそれを知った少年は、目を閉じたままゆるりと微かな笑みを浮かべた。
自分が温かな物に包まれている事に、少年はぼんやりする意識の中で気付く。
そして、それよりも温かい物が手に触れている事に、んっと眉を寄せた。
二度と開く事は出来ないだろうと思っていた瞼は、恐る恐るではありながらも、しっかりと開く。
視線の先には、薄暗い路地でも崩れ掛けた廃屋の天井でもなく、古いながらもしっかりとした造りの天井。
こんな天井は、今まで一度も見た事ないなぁっと未だぼんやりした意識の片隅で少年は思った。
「ん・・・んー・・・」
自分だけだと思っていた空間で、突如聞えた別の誰かの唸る声に、びくり身体を震わせる。
慌てて声の聞こえた方に視線を向ければ、猫の仔のように身体を丸め眠る・・・まだ少年の半分しか生きていないだろう幼子の姿があった。
意味が分からず、兎にも角にも起き上がろうとした少年だったが、動かそうとした手が何かに阻まれたかのように動かない。
何だ?何だ?と疑問符を浮かべて、漸く気付いた。
動かない手を、幼子が抱きかかえていた事に。
「・・・意味、わかんねぇんだけど」
ってか、ここ何処?と、やっとはっきりし出した思考を回転させる。
と、その思考の回転を止めるかのように、すっと障子が開かれた。
再び驚いて視線をそちらに向ければ、十には届かないだろう少女の姿がある。
「新ちゃん!やっぱり此処に居た!!」
誰だ?と少年が問いかけるより早く、少女は口早にそう叫ぶと少年に・・・ではなく、丸くなって眠る幼子に近付いてさっと抱き上げた。
そして、少年を警戒するように素早く身を翻すと、呼び止める間もなく駆け出て行ってしまう。
突然の事に混乱する少年は、ただ先程まで手の中にあった温もりが無くなった事が、酷く寂しく感じた。
だが、今はそれを惜しんでいる場合ではないと思い直したのか、あまり力の入らない身体を叱咤して起き上がる。
そこでやっと、自分は上等・・・とまでは言えないが、心地よい厚みがある布団に寝かされていた事を知った。
身体を見下ろせば見覚えのある襤褸ではなく、明らかに大きさの合わない着物を着ている。
泥に塗れていた筈の身体は、泥一つ無かった。
けれど、やはり意味が分からないと落ち着かない様子で辺りを見渡す。
造りは少々古びているが、それでも立派な造りだと分かる部屋。
一度だってこんな場所で眠った事の無い少年は、これが世に言う極楽なのだろうかと首を傾げた。
それにしては、生の温かさが満ちている事に益々首を傾げる。
「妙の言う通りだ。目が覚めたのだな」
不意に掛けられた声にギクンっと肩を跳ねさせ、其処から逃げ出そうとした少年だったが、力の入らない身体は起き上がっているだけで限界なのか、微かに身動いだだけだ。
聞えた声の低さ、一瞬だけ視界に入った姿。
今まで、少年を痛めつけた大人が其処に居る事に、身体を硬くさせる。
ふと、影が掛かり、直ぐ近くで人が動く気配。
また、殴られるのだろうかと歯を食い縛ってきつく目を閉じたその時・・・。
「気分はどうだ?腹は空いて無いか?」
労わるような優しい声音と一緒に、頭の上で何かが行き来する感触がした。
少年は、きつく閉じていた目を見開く。
「どうした?何処か痛いのか?」
何も応えない少年を心配したのか、声が先程よりも近くで聞こえた。
恐る恐ると顔を上げれば、柔和な人好きのする笑みを浮かべた男が少年を見下ろしている。
ぎこちなく少年が首を振れば、男はほっとした表情を浮かべた後、にっかりと笑った。
途端、ぐらぐらと頭が揺れて、少年は息を呑む。
自分で揺らした訳ではない、頭の上にある何かに強制的に揺らされているのだ。
目を白黒させる少年を他所に、頭の上にあった何かが退いた。
視線でそれを探していた少年はそこで初めて、それが男の手であった事を知る。
何時だって、大人の手は振り下ろされる物であり、その手が自分の頭を撫でるとは思いもしなかったのだ。
そして、思う。
やはり自分は死んでしまったのだ、と。
そうでなければ、何故大人が自分の頭を撫でるのか説明が出来ないと、少年は自嘲気味に口唇の端を吊り上げた。
「ほら、食べなさい」
再び男の声が自分に向けられ、少年は目を瞬かせる。
目を瞬かせて、男の手によって眼前に差し出された物を唖然とした表情で見詰めた。
其処には、温かな湯気を上げる粥がたっぷりと注がれた椀。
さぁ食べなさいと、男は差し出している。
少年は、ぶんぶんっと頭を横に振ってそれ拒絶した。
「腹が空いてないのか?」
「死んだら、腹は、空かない・・・」
心底不思議そうな男に少年はぽつりと呟くと、可笑しな事を訊くなと言いたげに男を見上げる。
と・・・消え掛けた語尾を引き継ぐように、ぐぅっと少年の腹の虫が鳴った。
腹の虫が鳴った事に驚いたのか、咄嗟に抱えるようにして腹を押さえる。
何で?どうして?と、今迄で一番多いだろう疑問符が少年の頭の中を満たした。
「ははははははっ!!死んでも腹の虫が鳴ると言う話は聞いた事がないなっ!!」
声を上げて快活に笑う男に、少年はただ戸惑う。
「何で腹の虫が鳴るんだ?って言いたそうな顔だな。それは当然だ。お前さん、死んじゃいないからなぁ」
「死んで・・・ない?」
「が、このままじゃ腹の虫が鳴らんようになりかねん。さぁ、食べなさい」
ただただ不思議そうに見上げて来る少年に男はにっかりと笑い掛け、腹を抱えたままの手を取るとしっかりと椀を握らせた。
椀を通してじんわりと染み込む温かさと鼻腔を満たす柔らかい香りに、再びぐぅっと腹の虫が鳴る。
ごくんっと喉を鳴らすと、少年は添えられた匙を掴んで椀の中を満たす粥をガツガツと掻き込んだ。
吹き冷ます事もせずに掻き込んだせいか、舌がビリビリと痛む。
味も良く分からない。
それでも、少年は今までで一番美味いと感じた。
「慌てなくて良い。ゆっくり食べなさい」
柔らかい男の声がして、大きな手がゆっくりと背を撫でる。
一瞬、それにびくりと少年の身体が跳ねたが、男はそれ以上は何も言わずにただ背を撫で続けた。
腹の内から感じる温かさと背に感じる温かさに、目の奥がぐわりと熱くなるの少年は感じる。
それが何か分からないまま、ただ、痩せ細った身体を小刻みに震わせてながら、少年は粥を掻き込み続けた・・・。
※長くなりましたので、前編・後編に分けます。
