覚悟は良いか?










その背中を蹴り倒せ!!! 〜背中〜










夜こそが本来の活動時間である歌舞伎町は、昼間とは少し趣の違う人々が行き交う。
その人並みを縫うような軽やかな足取りで閃は進んだ。
擦れ違う人と肩がぶつかる寸前で、猫のようにするりと身を捩って路地へと滑り込む。
さらりと揺れる黒髪は、気ままな猫の尻尾に良く似ている。
転がる空き缶や壁際に置かれたポリバケツを器用に避けて、閃は入り込んだ路地の入り口から遠くに見える出口に向かった。
路地に入り込んだのは近道でも通り道でも何でもなく、ただたんにそんな気分だったからだ。
それにしてもと、閃は胸の内で呟く。
はっきり言って、どうやって自分が此処に来たのか覚えていない。
恐らく、発熱で朦朧とした意識のままさ迷ったせいだろう。
それでも、何故かその足は戸惑う事無く進む。

帰る・帰ろう・帰りたい。

目を閉じて閃はまた一歩踏み出した。
足の裏がしっかりとコンクリートを踏みしめた瞬間、ぐにゃりと周りが歪んだような感覚に身を包まれる。
例えて言うならば、巨大なゼリーにでも突っ込んだかのような―まぁ、本当にそんな体験をした事は普通無いだろうが、あくまで例えるならだ―そんな感覚。
そう言えば、同じような感覚を前にも感じた事があるなと閃は曖昧な記憶を引き摺り出す。
目を閉じたまま数歩進めば路地の終わりが近いのか、瞼を通して大通りの昼間のような明かりがチカチカと瞬く。
あぁ、あの時と同じだなとふと笑って、さらに一歩踏み出した。
何処か遠かった喧騒が大きくなり、閃は自分が路地を抜けて別の大通りに出た事を悟る。
ゆっくりと閉じていた瞼を開けようとした時、ふっと閃の上に影が落ちた。
閃が目を開けてそれを確認するより早く・・・。



ゴィンンン!!!



と、かなり痛そうな音と衝撃が閃の脳天から爪先へと走った。
一瞬あまりの衝撃に硬直した閃だったが、続いて襲って来た痛みに頭を抱えしゃがみ込む。
ジンジンどころがグワングワンと痛む頭を抱えたまま顔を上げると、涙目で睨みつけて・・・ぽかんっと呆けた表情を浮かべた。
閃の目の前には、無気力ながらも明らかに不機嫌と分かる表情を浮かべてプラプラと右手を振る男の姿。
一時間程前に別れを告げた筈の銀時が、しゃがみ込む閃を見下ろしていた。
プラプラと振っていた右手をくしゃくしゃな銀髪に突っ込んで掻き乱すと、はぁっと大きな溜息を吐く。



「なぁにやってんだコラァ。不良ですか?不良気取りですかコノヤロー」



今何時だと思ってんだお前と、呆れ交じりの言葉に閃は目を瞬かせる。
きょとりとした表情を浮かべる閃に、銀時はゆっくりと口を開いた。



「聞いてんのか?」



銀時は未だしゃがみ込んだままだった閃の腕を掴むと引き起こして、ぐしゃりと頭を撫でる。
無骨な指の隙間を滑った髪は濡れたような黒髪ではなく、白にして鈍い輝きを放ち、目の前に立つ銀時にそっくりな色。
違うのは真っ直ぐな癖の無い髪質と、左前髪の一房だけが相変わらず濡れたような漆黒。
掻き揚げられた前髪の下、露わになった右の瞳は透き通る紅に染まり、左の瞳は黒に僅かばかりに紅の混じった不思議な色彩へと変じていた。



「ったく・・・」



ペシッと叩かれて、閃は反射的に小さくイテッと呟く。
叩かれた箇所を撫でながらむっと表情を歪ませた。



「ポコポコ殴んなよ」
「うっせぇ。子供は拳で育てるもんなんだよ
「それただの虐待じゃねぇか」



訴えんぞコラァと反論すれば、もう一度ペシリと叩かれる。
だからイテェつってんじゃん・・・と、軽く睨みつければそんな物は何処吹く風とばかりに銀時はクルリと背中を向けた。



「グダグダ言ってねぇでけぇるぞ馬鹿息子」



確かに自分に向けられた言葉に閃は、自分が『戻って』来た事を実感する。
少しずつ遠くなる銀時に閃時は駆け出し・・・。



「待てよ!親父!!」



その背中に言い慣れた言葉を投げ付けた。
立ち止まり振り返った銀時は相変わらず死んだ魚のような瞳に閃を映す。
だが、直ぐに顔を正面に戻すと再び歩き出した。



「言っとくけどなぁ・・・俺ぁ何時だってテメェの為だけに血ィ流してんだ。息子守る為に血ィ流すのが親父の役目だっつうの。だから父ちゃんは謝ったりしねぇかんな。それが嫌だっつうなら、とっとと追い付いて来いってんだコノヤロー」



オメェの母ちゃんは、約束通り追いついて来たんだからよと、独り言のように零した銀時に閃はクルリと瞳を丸くさせる。
そして、きゅっと口唇を引き結ぶと助走を付けて、銀時の背中を蹴り飛ばした。
うぉ!?っと慌てた悲鳴を上げた銀時はたたらを踏み、何時の間にか数歩先に躍り出ていた閃の姿に顔を顰める。



「言っとくけど!!」



何しやがる!!と叫び掛けて、それよりも早く叫んだ閃に銀時は思わず口を閉じた。



「俺は親父の背中守りたいとか思ってねぇかんな!!それは母さんの役目だ!!今に見とけ!!その背中に追いつくなんて生易しい事はしねぇ!!」



そこまで叫んで閃は踵を返したかと思うと、ビシリと銀時に指を突きつける。



「その背中を蹴り倒して親父の前に出てやらぁ!!」



良く覚えとけ!!言い捨てて駆け出した閃に、銀時はニマリと表情を緩めた。



「そいつぁ楽しみだなぁ・・・“閃時”」



真っ直ぐ前を見て走る、自分の血を名を分けた息子の背中を眩しそう目を細めて見詰める。



「それにしても・・・」



蹴られた背中を撫でて、銀時は呟く。



「家出すんなら、常識の範囲でしろってのな」



なぁにが“閃”だ。そりゃ偽名じゃなくて略称だっつうの馬鹿息子。
十七年越しに再び出会った家出少年に銀時は苦笑う。



「新八も神楽も定春も、ちゃんと覚えてんのかねぇ・・・」



路地から出て来た一瞬だけ、黒髪に黒い瞳をしていた息子の姿を思い返して、ふっと笑った。