086.静寂





まるで、隔離された空間。





不意に、隣で寝ていた筈の親父に肩を揺すられた。
目を開けると、逆さまな状態で親父が顔を覗き込んでいる。
完全に寝入っていた訳じゃないから、意識は意外とはっきりしてて直ぐに何だよ?と親父に問い掛けた。
一呼吸分の沈黙の後、親父は道場とだけ呟いて立ち上がる。
起き上がって薄暗い部屋の中で目を凝らし、壁に掛かっている時計を見れば、三十分もしない内に今日が終わりそうな時間だった。
親父の意図は分からない。
でも、何故か絶対に行かなければならない気がした。
音も無く先に部屋を出た親父を追いかけようと立ち上がって、思わず動きを止める。
そして、自分の身体を見下ろした。
俺が身に付けているのは、寝間着代わりの甚平。
もう寝る気満々だったから当然だ。
気付けば、枕元に置いてあった道着を手に取っていた。
母さんと伯母上で仕立ててくれた、初めて袖を通すそれ。
明日は朝から母さんが稽古を付けてくれると言ったから、さっそく使おうと思って用意していた物。
どうしてか分からないけど、そうするべきだと直感が告げる。
ずっと使っていたかのように馴染むのは、俺の為に用意されたからなのかしれない。
着替えを済まして、廊下に出る。
素足には、床の冷たさが少々辛いけど、それよりも大きな音を立てないように注意して道場に向かった。
道場に入る前に、神棚に一礼。
先に道場に入っていた親父に視線を向ければ、こっち来て座れと視線で促される。
何故か、親父は何時もみたいにだらしなく胡坐を掻かず、すっと背筋を伸ばして正座。
訳が分からなかったけど、促されるままに親父の前に進んで、膝を折った。
向かい合わせでお互い正座するなんて光景、普段なら笑ってしまいそうだけど、今はそんな気分になれない。
寒さのせいだけじゃなくて、妙に張り詰める空気がそれを許してくれなかった。
静寂が少し、苦しかった・・・。










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父と息子の静かなる対面。
2008.09.03





















087.白い息





白い息に、寒さを思い出す。





妙な静寂は暫く続いた。
居心地の悪さを感じたけど、この静寂を俺が破ってはならない気がして、ぐっと口唇を引き結ぶ。
視線は、自然と幾らか開いた膝の間に落ちていた。



「閃時」



深みのある声が、聞こえた。
もう一度名前を呼ばれて、それが親父の声だと気付いた時は何でか軽いショックを受ける。
こんな深みのある、老成した親父の声を聞いたのは初めてだったからかもしれない。
喉がカラカラに渇いていて、声が出せなかった。
声が出せない代わりに顔を上げて、少しだけ高い位置にある親父の両目に視線を合わせる。
死んだ魚のような瞳じゃなく、何かを決意した瞳鋭い紅い瞳に、ざわりと血が騒ぐ。
まるで真剣勝負の睨み合いみたいだと思った。



「元服って知ってるか?」



突然の親父の問いに目を瞬かせながらも頷く。
今で言う、成人式の事だ。



「今日でお前も十五になった。これからは、一人前の男して扱う」



そう言って、親父は傍らにあった何かを掴むとぐっと俺に向かって差し出す。
それは、黒を基調とした拵えの一振りの刀。
俺の両手はそれを受け取る為には動かず、ぐっと両膝を握り締めた。



「刃引きはしてある。でも、凶器には変わりない」



刀を差し出したまま、親父は静かに言葉を綴る。



「誰かを、何かを護る為に振るったとしても、誰かを、何かを傷付け壊す事には変わりない」



親父がしゃべる度に、白い息が吐き出されて霧散する。
それだけこの道場内は寒いんだと、漠然と思った。
そんな事を忘れる位、ドクドクと全身を巡る血が熱い。



「受け取る覚悟はあるか?」



問われ、膝を握る両手にさらに力が篭った。










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その手を伸ばすか伸ばさざるか。
2008.09.03





















088.大きな





握り締めたのは・・・。





覚悟はあるかと問われた。
それは、誰かを傷つける事、そして何かを壊す事への。
何よりも・・・闘う事への覚悟があるかと。
月の角度が変わったのか、差し込む月明かりが突き出された刀を照らす。
受け取るのも、受け取らないのも俺の自由。
闘う事は、何も傷付け壊す事だけじゃない。
自分自身が傷付けられ、そして何かを壊される。
それでも闘うか。闘えるのかと、音の無い言葉で問われた。
正直分からない。
今の俺に、それだけの覚悟があるのか。
膝を握り締める手は、吐く息が白くなるほど寒い筈なのに、汗を掻いていた。
息を吸う。息を吐く。
たったそれだけの事が、自分に言い聞かせないと上手く出来ない。



「力を抜け、閃時」



不意に響いた親父の声に、刀を見詰め続けていた視線を上げる。
真っ直ぐな視線を受け止めて、ふっと肩に入っていた力を抜いた。
力を抜けば、自然と持ち上がる両腕。
まるで膝に張り付いたように動かなかった手は、気付けば鞘をしっかりと握り締めていた。
頭で考えて出した覚悟じゃなく、本能が叫ぶ覚悟。

俺は、護る為に闘う。それが、俺の魂の覚悟。

親父の手が、刀から離れた。
ずっしりとした重さが両手に掛かる。
この重さは、俺が死ぬまで変わらないだろう。
俺が俺である限り。

握り締めたのは、大きな覚悟。










END





そして、少年は男になる。
2008.09.03